6.平和と民主教育への出発(昭和27年〜昭和46年)
 昭和27年は、北郷里小学校創立60周年(明治25年創立起算による)の記念すべき年にあたるとともに、前年のサンフランシスコ講和条約において、終戦時からの占領政策から解き放たれた意義のある年であった。教育界にも次第に自主性を重んしる風潮があらわれてきた。北郷里においても教育の重要性が再認識され、教育施設の充実が計られると同時に教育研究の活動も積極的に進められていったのである。
■独立図書館竣工
 創立60周年の主な事業として独立図書館が建設され、昭和28年2月21日に竣工開館式が挙行された。この図書館は北郷里学区民および卒業生からなる記念事業委員会を組租し、浄財を集めて建設された尊いものである。
 図書館建築費は、803,065円であった。
 この図書館は、すっきりした寒水石入りの白壁に青い窓、赤瓦でそばのヒマラヤシーダーとの調和がとれてすばらしい。北側の3つの通し窓は、波線ガラスを入れた工夫がこらされている。東・西・南の窓は観音開きになっている近代的な様式を取り入れている。この他にも図書館としての環境に苦心の後がよくうかがわれる。このような建設に際して、有志の方々の多くの物件寄付並びに児童をも含む貴重な奉仕作業がなされたのである。
図書館竣工を祝って出された絵葉書
竣工となった図書館の内部
●校歌・校章の制定
 教育界では、自主的自律的な教育の推進に一層の努力がはらわれるようになった。本校では60周年を機に、北郷里の子どもとして自覚と誇りをもたせ、愛校心を養おうという願いから校歌・校章が制定された。
●待望のプール新設
 北郷里小学校は、水泳場に恵まれず、夏季ともなると、炎天下長蛇の列を作って、多勢の児童が先生に引率されて、近くは南郷里小学校へ、遠くは琵琶湖岸(昭和35年7月29日、入江臨湖学校開設)へ、水泳に出かけていった。その間水難により尊い一命を失うこともあり、そうした姿を見て一日も早くプールを建設して、一つには子どもたちの体位向上に、一つには火災の予防に資したいということが、長年の念願であった。
 それが、昭和34年の暮、公式の問題となり、昭和35年8月、プール兼防火用水池建設委貝会が、たが、昭和36年7月17日に、保多の用水池に落ちて溺死した2年生児を始め、2度3度の犠牲もでて、一日も早くプール竣工を計らなければならないと思われ、大小百回近くにわたる会合が開かれ、時には会が、暁に及ぶことすらあった。
 昭和36年8月工事入札・起工式が行われ、直ちに着工され、突貫工事がなされた。
プール竣工式
工事中のプール
●前畑女史を招いてプール開き
 相次ぐ、物価の値上がりや、建設位置の変更等々の難問題に直面し学区内外の人々の援助協力と、子どもたちの廃品回収や、姉川への栗石拾いの尊い力が実り、プール竣工の日昭和36年12月20日を迎えた。
 翌昭和37年6月29日のプール開きの当日は、ベルリンオリンピックで世界にその名をとどろかせた兵藤(前畑)秀子選手を迎え、模範泳法が公開された。
姉川での栗石拾い
完成したプール
 こうして長年の夢が、多くの人々の冬力や芳志によってかなえられ、その後、6月下句からの体育時の水泳指導、夏休みのプール開放などで、子どもたちは存分に泳ぐことができ、9月に校内水泳大会も開かれるようになった。
 児童の水泳能力は、年をおい目ざましい向上をみせ、市内学童水泳記録会でも、立派な記録を出し活躍している。
前畑選手と新しいプールで泳ぐ子どもたち
●新体育舘の建設
 昭和15年に建築された講堂は、時代と共に老朽化し、危険性をはらんできたので、学区民の強い要望により、連合自治会、PTA等を中心に、建築計画が立てられた。
 関係者の努力で、昭和46年3月27日に、講堂取り壊し工事が始められ、4月16日には、新体育館建築の起工式が、5月11日には、上陳式が無事行われた。9月の完成を目ざして、機械やダンプが忙しく動いており、連日工事が進められた。
着々と進む体育館工事
新体育館全景
 9月22日には、市長他11名の来賓を迎え喜びの体育館竣工式が挙行された。
 新築記念として、グランドピアノ、演台、花台、折りたたみ椅子550脚、放送器機一式、ステージ緞帳などが寄贈され、近代的付属設備が整い、名実共に、立派な体育館となった。
体育館開き
 記念行事として、体育舘開きが、11月21日の日曜日に行われ、祝賀式は、多数の来賓を迎え、盛大に挙行された。午後1時より、3時半まで日清紡女子九人制バレーの模範試合が、披露され、全校児童は、力強い練習・試合に感動した。 
 このチームは、日本バレーボール準決勝級の試合だと言われており、学区内の高校生、中学生も多数見学に来た。今では、子どもたちも思う存分、体育館で活動している。
日清紡バレー模範試合