3.教育内容の変化と対応(明治41年〜昭和7年)
 明治40年3月、小学校令が改正され、これまで4か年であった義務教育が6か年に延長きれた。これは、明治27・8年の日清戦争後の近代産業の発達に伴なう国民生活の向上や、国民教育に対する認識の深まったことに関連している。また、義務教育費の国庫補助制度の確立や授業料の廃止による就学率の向上がその基礎となっている。
 教育内容は、国民皆兵・天皇制を旗じるしに拡充され変化していった。国定教料書は、教育勅語の精神を具現するものになった。そして、画一的詰め込み主義、記憶偏重が強いられることになった。
 こうした中にあって、第1次世界大戦が起こり、わが国の教育も反省され、新教育の胎動が見られるようになったが、自由主義の教育運動は弾圧される結果となってしまった。そして、昭和6年の満洲事変を境に軍国主義体制へとばく進し、明治のビジョンはぬけ、外への恐怖をつのらせた。
●義務教育の延長
 明治34年以来、尋常科4ヶ年高等科4ヶ年であった学制が、1年の準備期間をおいて、明治41年4月より義務教育の尋常科が6ヶ年に延長され、その上に高等科が2ヶ年置かれることになった。
 当時、高等科へ進む者は、20名余りで、特に女子の進学は少なかった。けれども、大正時代の終わりには、毎年50名を越えるようになった。
 一方、尋常科も児童数が増加したが校舎の増築もできず、1学級の児童が70名を超すような状態も現れた。
尋常科卒業証書授与録
●教科書の改訂
 明治35年12月、これまで検定制度であった教科書が国定制度に移行した。明治37年の国定教科書は、「イエ」「スシ」ではじまる一連の教科書で文明開化がもたらした文明の利器を紹介したものが多かった。何よりも修身が大事な勉強で、通信簿にも、先ず修身、国語、算術となっていた。その頃の勉強のコツは、先生の話を忠実に暗記できるようにすることであった。
 明治43年の国定教科書の改訂では、天皇制を讃え、忠君愛国の思想を国民に浸透させようとした。唱歌の全盛時代ともなった。
 大正7年、第一次世界大戦の影響を受けて、歴史、地理、理科の重視される小学校令の改正と教科書の改訂が行われた。この教科書は、「ハナ、ハト、マメ、マメ」と親しまれたもので、昭和7年までの15年間続いた。通信簿の評定も、「甲、乙、丙、丁」で表されるようになった。
明治43年から使用された教科書
大正7年から昭和7年までの国定教科書
昭和初期の夏季練習帳
●充実していく学習内容
 明治43年の教料改訂に伴い、いろいろな備品が整えられた。理料では、動物の模型や鳥類の剥製をはじめ、鉱石の標本、人体解剖模型、実験用器機などが揃った。また魚類の標本などは「先生と児童の協力で作成した。」と学校日誌の記録に残っているものもある。研究会を度々開いて教授法の研究がさかんに行なわれたことも、学校日誌に記録されている。
 それらが、地についた研究であったことは、特製ノートとその使い方にもうかがえる。
当時からの理科備品
教師用参考図書目録
実験器機や模型で学習した北郷里特性ノート
児童に対する研究も盛んで、一人ひとりのこよなき成長を願って発達を記録した累積研究の一つ
昭和8年までの北郷里尋常高等小学校と校章
北郷里の礎
●枚舎改築
 明治の中頃から就学する児童の数が増え、校舎を増築することになり、明治36年、現在の農業協同組合の所に土地を求めて平屋4教室1棟が建築された。その後、明治43年南校舎平屋4教室1棟が増築され、続いて明治44年6月、西校合の二階建本館が移転改築された。
同校配置図
JA北郷里支所前に残る門柱と石垣
●千草分教場再開     
 明治25年11月、千草分教場を廃して本校に併合したが、その後就学する者が減少し、これでは社会の進運に遅れると明治45年分教場の再開が決定された。現在慶雲寺のある所に分教場を建築し、大正2年9月1日よリ1,2年の児童を収容した。続いて大正3年から3年の児童を、大正4年から4年の児童も収容し、同時に農業補習学校も併設された。
 大正11年7月、地元の希望を尊重し5,6年の児童も収容したが、他地区との交流がなくなると11月で廃止した。
 昭和に入ってから就学する児童が増え分教場に収容しきれず、昭和49年9月よリ4年生が本校に通学することになり、更に昭和5年4月よリ3年生もうつることになった。
大正時代の千草分教場の想像図
千草分教場の沿革誌
●農業補習学校
明治44年8月、これまであった附設裁縫専修学校が廃止され、9月、農業補習学校が開設された。
●決まらぬ枚地
 大正12年ごろより校合の考朽化が目立ち、全面改築が論議され始めた。改築するには校地を拡張し、立派な学校を、とみんなが願った。その上通学距離が少しでも短い場所に建築しようと、村内が南北に分れて自分たちの考えを主張し合った。それに村内のいろいろな政治問題がからみ合って、校地は何時決まるか見通しもつかなかった。
 昭和6年南部は私立小学校を堀部に建築し、北郷里小学校への登校を拒否するまでになった。しかし、私立小学校は許可されず、昭和7年3月の卒業認定問題を前に、県知事が仲裁に入り、校地は現在の位置に決定、堀部の私立小学校は北郷里尋常高等小学校の分校として認められた。そのため卒業認定がされないと中等学絞へ進学できないと心配していた父兄もやっと胸をなで降ろすことができた。
●新校舎への夢
 南北の和解が成立して校地も決定し、昭和7年4月21日地鎮祭が挙行された。続いて新校舎建築の計画は着々進み、昭和7年11月23日、祝賀大運動会が全村挙げて挙行された。これには子どもも役員も感激にひたり、喜びにわいた。こうして長年の夢であった大北郷里校舎建築の槌昔は、高らかに響くようになった。
校舎新築地鎮祭と工事仕訳書
●校旗樹立式を挙行
大正11年10月15日、この日を期して校旗樹立式が挙行された。
 大正11年、これ年に始めて校旗が新調された。校長長先生は田中大次郎さんであった。その秋の10月15日、運動会の席上、光栄ある旗手を命しられた。文字のデザインは北の字を五角に型どり、真中に里の字があった。いずれも、金糸の刺しゅうが施され、房も重めの絹糸が使われていて、ずっしりと重い感じで、当時、小さい私の身体には、こたえた。−段高い台から参列者の表敬を受けたことを、強く覚えている。
樹立された校旗
少年赤十字団