2.学校の統合(明治25年〜明治40年)
北郷里教育の発展をめざして
 明治も後半に入ると、教育の普及は著しく、ほとんどの子供が小学校へ通うようになった。教育勅語を支柱として忠君愛国の教育が徹底して行なわれた。
 明治27,8年目清戦争の大勝利が祝われたかげに多数の犠牲者のあったことを忘れることができない。政府は戦後「臥新掌担」を叫び、、次の大陸戦争にそなえて軍事拡張に熱中した。小学校にも兵式体操と称し軍事教育が課せられた。
 日清日露の戦いで財政膨張にともない、国民とくに農民の負担は増大し生活は苦しかった。
 しかし苦しい財政の中で統合校合が明治29年に建設せられ、続いて明治36年・43年・44年に引続き校合の建設が行なわれている。今日のように国や県から補助があるわけでなく全く村独力の財政で校舎が建設されたのである。
 当時の学校日誌には毎日のように村長・学務委員が来校しておられる。又各大字からは、40名、50名と有志者の奉仕が記載されている。村を挙げての学校建設に参加された当時の様子を知るにつけ、われわれの先祖がいかに教育に熱意を持たれ、又期待しておられたかをうかがい知ることができる。
 社会の発展に対応すべく次々に改革された教育制度も明治41年に6・2制となり、大正、昭和と受けつがれ、終戦までのおよそ40年間、日本の小学校の骨格をこの時期に形成したのである。
郷里尋常小学校
●明治23年小学校令改正に伴い、明治25年9月より修業年限4ヶ年の尋常科を置きさらに補修科3年を併設して名称を郷里尋常小学校と改めた。一方千草には千草の簡易科を廃止し代わりに千草分教場を置いたが同年11月千草分教場を廃止して本校に通学するようになった。ここに至って一村一校の学校統合をみるに至った。
郷里尋常小学校卒業証書
新築成った郷里尋常小学校の想像図
授業料徴収
●明治19年の学制改革で高等科(4年)の設置が決められたが、北郷里小学校に設置されたのは、明治34年4月であった。
 北郷里に設置されるまでは、長浜小学校の高等科へ通学した。授業料は、月50銭であった。北郷里に設置されたときは、七尾村や近隣の村からも通学する者がいた。授業料は、15銭であった。
授業料の徴収票
郷里尋常小学校から北郷里尋常高等小学校へ
●明治25年尋常科4年と修業年限3ヶ年の補修科を加設してあったが、小学校令改正に伴い、明治33年補修科を廃して、修業年限3ヶ年の高等科を併置し校名を北郷里尋常高等小学校と改称した。越えて、34年4月高等科終業4ヶ年の教科を併置した。
祝賀 高等科併設記念撮影
教育の内容
●通知書は、美・良・常・不良・非の5段階評定であった。「不良・非」は落第であった。教科は、修身、国語、算数、体操、歴史、理科、図画、唱歌、裁縫、英語の11教科であった。
 明治36年4月から、高等科男子には農業かを課し、明治37年4月より、本校に裁縫専修学校を附設し、女子のために裁縫を教授した。
明治35年の児童成績通知書
修身教科書
小学算術 高等科
高等読本 教育勅語
小学校1年の習字手本
当時使われていた算術ノート
明治25年以降の教科書