1.学校の誕生(明治8年〜24年)
北郷里の夜明け
 私たちの住む北郷里の由来をたずねてみると、大和時代にさかのぼる。当時坂田郡(長浜市、山東町、伊吹町、米原町、近江町を一括)は、九つの北郷里にくぎられ、そのうち長浜市は、上坂郷、細江郷、下坂郷、阿那郷とに分かれていた。私たち北郷里は上坂郷内にあり「郷土長浜による」しかも北の郷に位置していることから、北郷里(旧村名)と名付けられ、現在北郷里小学絞として生き続けているのである。
 流れも清き姉川を北に東と南は臥竜の山で囲まれ西に広々とした平地が続く郷土は、清らかな水と空気の豊かな自然に恵まれ、朝な夕なにはぐくまれてきた。北郷里に住む私たちの祖先は、教育最優先を旗印に数知れない苦難の道に耐え、それを乗り越え、努力と創造の営みが、教育の良き伝統を築きあげてきたのである。
 北郷里小学校の創生期から初期の頃を展望した時、さまざまな努力の跡が見られる。江戸時代も終わりを告げる頃から寺子屋での教授が始まった。明治5年明治政府は学制発布をしたが、北郷里の地では、その後数年間寺子屋教授が続けられていた。しかし寺子屋に通える子はほんの一部である。みんなの子が学べる学校をとの声に推され、学校創設の気運と開校の胎動が日増しに高くなり、それが学校建設への足並みを揃え、多額の資材と労力を投し遂に明治8年創始開校を見るに至ったのである。まさに母校誕生である。その後何度か学制の改革とともに学校統合もなされ、明治25年郷里尋常小学校として、一村一校の学校として出発するのである。
寺子屋
●北郷里にも、3つの寺子屋があったと伝えられている。寺子屋は、江戸の末期から明治のはじめにかけて誕生した。寺子屋では、6才〜15才頃までの青少年を教育した。主に読み、書き、そろばん等であった。
寺子屋風景
●当時の寺子屋としては、春近町に田中清憲先生、保多町の念力寺の住職菅原硯城先生、堀部町に名内源治郎先生がそれぞれ自宅で教授していた。
田中清憲先生の碑
菅原硯城先生の銅像
田中先生の寺子屋(青木甚人氏宅)
菅原先生の寺子屋(念力寺)
名内先生の寺子屋(名内喜代治氏宅)
五里学校の創立
●「明治8年12月17日に五里学校が創始開校された」と春近町誌に記録されている。坂田郡東上坂村稲林(現在駐在所のところ)に建てられていた。因みに、東上坂、西上坂、垣籠、保多、春近の五村の設立なので五里学校と名付けられたとのことである。
明治8年12月17日に開校された五里学校
開新学校の創立
●明治8年に七条村、小屋村、石田村、堀部村の子ども達の学校として、小屋村(石田町)の小治郎に設立された。学校敷地もこの4ヶ村の分担により買い入れ設立したものである。
明治8年に設立された開新学校
開習学校の創立
●明治初年学区制発布以来本村内一般部落ニアリテハ夙ニ組合ヲ設立シテ或イハ開新学校又ハ五里学校ノ開設ヲ見ルニ至リシモ千草部落ニアリテハ如何セン他ニ追随スルコト能ハス遂ニ数年ノ後漸ク開習学校ト称スルモノヲ設立シタリト雖モ殆ト舊寺小屋式ニテ其進歩誠ニ遅々タルモノアリ(千草分教場沿革誌より)
開習学校であった坂本源義氏宅
教親学校の誕生
●明治19年11月30日、開新学校を廃して、五里学校に併合し、教親学校として発足した。東上坂、西上坂、保多、垣籠、春近、石田、小屋、堀部の8ヶ村をもって一学区とし、義務制の尋常4年制が設置された。また、明治20年から23年まで補修科3年の課程を設置した。また、明治25年からは補修科3年の課程を設置した。また、明治25年11月まで開新学校区に入っていた七条村は同年12月に宮司小学校に編入され、分離された。一方尋常科への就学困難な場合には簡易科が認められ、北郷里でも千草村の開習学校跡に設置された。
小屋村分教場
●教親学校設立と同時に、小屋村には、開新学校跡に分教場が置かれ、1,2年生を収容していた。
明治のはじめに使われていた教科書